幸せな記憶が脳裏を掠める。
自分を見上げる満面の笑顔。
自分を呼ぶ幼い声。
自分に向けられる惜しみない信頼と愛情。
全て失ってしまったけれど――。
『シンって器用なのにこういうのは下手なのね』
髪が伸びて邪魔だと言う春日に適当に手近にあったリボンをやれば、今度は上手く結べないと言う。
だからわざわざ結んでやったのに、一目見て下手だと一蹴され、シンはむくれてパチンと指を鳴らす。
現れたのは鋏だ。
2つのリングに指を通し左右に動かすと、シャキシャキと切れ味の良さそうな音がした。
『髪が邪魔なら切れば良い。1番手っとり早くて最善の解決方だ』
見とれるほどの笑顔を向けられ、しかし春日は見とれることなく慌ててシンの傍から逃げ出す。
だがそれをやすやすと見逃すシンではない。
あっさり春日の首根っこを捕まえ、自分の前に引きずり戻す。
『止めてよ!シン、髪切るのも下手じゃない!』
『へぇ、いい度胸だな』
シンが今し方自分が結んだリボンに手をかけると、春日は彼の手を掴み、必死で頭を遠ざける。
『このままで良いわ』
『遠慮するな』
『してないわよ!』
そこで躊躇するようにシンを上目遣いに見上げ、だって、と春日は口を尖らせる。
『だって、シンが結んでくれたんだもん』
『……何だそりゃ』
急にやる気が失せて、春日を掴んでいた手が緩む。
その隙に春日はするりとシンの手から抜け出し、彼の手の届かない所まで逃げてから、くるりと振り向いた。
『有難う、シン』
捻れたリボンをつけた春日は、その原因であるシンが罪悪感を覚えるほど嬉しそうににっこりと笑った。
商品が鎮座している棚を冷やかし半分に眺めていると、ひとつの瓶の所で目が止まった。
手に乗るサイズのガラスの器に入っているのは小さな甘い金平糖。
何故そんなものに気を止めたのかと言えば、全ては家で留守番中の子どものひとりのせいだ。
シンがどこかに出かける度に毎度毎度土産物をねだってくる。
それも食べ物ばかり。
(別に土産を物色してたわけじゃないんだけどなぁ)
列車の待ち時間を潰したいだけだったのだが、結果的に丁度良いものを見つけてしまった。
瓶を手に取り、電灯に透かしてみる。
きらきらと光を反射するガラスの向こうに、これをやった時に見せるであろう眩しい程の夏林の笑顔が容易に想像出来た。
シンは自分の想像上の夏林のアホ面に吹き出し、瓶を手のひらに収めると、家で首を長くしているであろう食いしん坊のために会計へと向かった。
『シン、何読んでるの?』
シンが肘掛けに肘をついて退屈しのぎに本を読んでいると、山秋が彼の座るソファの傍までやってきてシンの手元を覗き込んできた。
脇にシンが貸した本を数冊抱えている。
どうやら読み終わった本を返しに来たらしい。
シンは答える代わりに本の背表紙を山秋に見せてやる。
『シェークスピア……?何か似合わない』
『そうか?』
『愛とか悲劇とか嫌いだと思ってた』
『別に嫌いじゃないよ。くだらないとは思うけど』
『じゃあ何で読んでるんだよ』
訳が分からないといった顔の山秋に、くすくすと笑いながら、シンは表紙に「ロミオとジュリエット」と書かれた本のページを捲る。
『こんなに馬鹿になれるなんて素晴らしいじゃないか。自分には真似出来ない、思いつくことも出来ない世界ってのもなかなか面白い』
何だか楽しみ方を間違えてる気がする、思ったが、そっちの方がシンらしくも思えて、山秋はシンの趣味にはこれ以上言及しないことにした。
代わりに、シンの邪魔にならないように気をつけながら、文字が読める位置に腰を下ろす。
『読みたいならどーぞ』
ずいっと開いたまま差し出された本に、山秋は首を振る。
『いい。シンが読んでて』
『そう?』
こくりと山秋が頷いたので、シンは再び文字へと視線を落とす。
床に座った山秋は、ソファに肘をついて共にそれを覗き込む。
『変な奴』
寄り添うように本を読む山秋を鬱陶しげに、それでも追い払うことはせずに、シンは山秋を見下ろす。
『別に邪魔してないんだからいいだろ』
拗ねたような口調は、普段の山秋がそんな表情をしないだけに、より子どもっぽく見える。
本の内容がどうとかよりも、シンと一緒に読みたいだけらしい。
『邪魔しないならな』
シンなりの了承の言葉に、山秋は安堵したように僅かに目元を緩める。
読み始めて直ぐに物語にのめり込んでいった山秋に、シンは彼の目の動きに合わせながらページを捲る。
シンも端々の文章を拾いながら、ベビーシッターのような似合わない自分の姿に苦笑する。
(まぁ、退屈しのぎにはなったか)
ちらりと真剣な山秋の横顔を盗み見る。
物語は有名なバルコニーのシーンにさしかかっていた。
『いっ……!』
『我慢』
額に血を滲ませた風冬が恨めしそうにシンを睨み上げる。
『……シン、何だか楽しそうですね』
消毒液を浸した脱脂綿をピンセットで持ち、そう?と首を傾げるシンはにこにこと笑っており、手当ての対象である風冬を前にしていながら隠そうという意志が全く見られない。
風冬がはぁっと溜め息をついた瞬間、傷口に脱脂綿を当てられた。
『痛っ、痛い!シン、止めて!』
ひとしきり風冬をつついてゲラゲラ笑った後、シンは広げていた消毒液やら脱脂綿やらを手早く片付ける。
ようやく風冬で遊ぶことに飽きたらしい。
パチンと指を鳴らしていつものように煙草を取り出し、火を付ける。
『お前は貧乏籤ばかり引きたがるな。マゾヒスト?』
『……シンこそサディストなんじゃないですか?』
ガーゼの当てられた傷口をそっとなぜ、風冬はジト目でシンを見上げる。
その視線を受けたシンは、何が面白いのか、はははと笑うと、戸口を見やる。
『まぁ、別に嫌いじゃないけどね』
半開きのドアの向こうから、風冬の怪我の直接的な原因である少女と、間接的な原因である2人の少年がバツの悪そうな顔を覗かせている。
切れたのが額だったので大して大きくない傷にも関わらずなかなか血が止まらず大騒ぎをしたため、シンが治療の邪魔だと追い出したのだ。
シンはちょいちょいと手招きして子ども達を呼び寄せる。
その途端、3人は我先にと風冬をに駆け寄り、ガーゼの当てられた傷口を覗き込んだ。
『ごめんね、風冬』
『ったく、春日の暴力も大概にしろよな』
『元はと言えば夏林と山秋のせいでしょう!』
『俺は大丈夫だから落ち着いて、春日』
再び喧嘩が始まる前に風冬が慌てて3人の会話に割り込んだ。
春日も懲りたのか、むくれながらも口をつぐみ、夏林と山秋を睨むだけに留める。
睨まれた2人は春日の視線から逃げるように顔を背けた。
シンは窓枠に寄りかかり、じゃれあう子ども達を眺める。
それは既に日常と化した光景。
ちいさな、ちいさな幸せのワンシーン。
それが突然、シンの目の前で歪んで霞む。
子ども達の笑い声や部屋の仄かな明かりが遠ざかり、テレビの電源が落ちるようにぷつりと暗闇に呑まれた。
目の前に見慣れた天井がある。
秋はそれを数度瞬きをしながら眺め、2人掛けのソファに横たえた自分の体を見下ろす。
座木がかけたのだろう、寝る前にはなかったタオルケットが包む体は高校生ほどの少年のもの。
子ども達を眺めていた青年ではない。
その子ども達も今頃は子どもとは言えないぐらいに成長しているだろう。
全ては夢だ。
夢とは思えないほどに鮮明な、思い出と言うことも出来ないような、記憶だ。
らしくもない感傷的な夢を見たものだと自嘲的な笑みを零し、秋は目を閉じる。
もう眼裏に子どもの影はよぎらない。
けれど胸には確かに仄かな温もりが残っていて、秋は小さな熱が冷めてしまわないようにタオルケットに潜り込んだ。
遠いキオクガクレタモノ
(とおいむかしのおはなし)